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zoom RSS F39)宇宙開発と出会って50年(3/3) 大石晃

<<   作成日時 : 2014/11/16 21:20   >>

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宇宙開発と出会って“50年” (トピックス あれこれ)(3/3)
    大石 晃 (2014/8/1 記)

〔3〕 「‘無人ランデブ’自律航法誘導制御システム」達成までのみちのり
@ 宇宙ステーション補給機(HTV)『こうのとり』の初打上げ
2009(平21)年9月11日未明JAXAは種子島宇宙センターから、新開発の大型ロケット「H2B」を打ち上げた。15分後の午前2時16分に、国際宇宙ステーション(ISS)に物資を運ぶ無人補給機の初号機を予定軌道へ投入し、『こうのとり』と名付けた。
ISSへの物資輸送は米ロ欧に次いで4番目となるが、補給能力ではHTVがロシアの補給機「プログレス」に勝り、ISS用補用品の大型バッリーや姿勢制御装置のような寸法の大きなものは、(米国のスペースシャトルが’10年に退役した今では)大きな開口部(2.7mX2.5m)を有するHTVにしか運べない。また、ISSとドッキングして宇宙服を着ずに出入りするハッチの開口部も、欧州の補給機「ATV」が0.8mΦの円系ハッチであるのに対してHTVでは1.2mX1.2mの角型ハッチであり、大型機材の出し入れが楽々できる等々、今や宇宙宅配便のエースの役割を担う。

HTV『こうのとり』は直径約4m、全長10m弱で観光バスがすっぽり収まる大きさである。打ち上げ時の全備重量は16.5tonで、最大6tonの食糧や衣類、各種の実験装置ほか所要の補給資材を、400q上空の軌道上にある宇宙ステーションへ送り届け、補給が済むと用途を終えた物資を積み込んで大気圏に再突入して燃やす。

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                    図15 「こうのとり」打上げを報じる記事

全体は補給物資を格納する「補給キャリア」と各種の電子機器が搭載された「電気モジュール」ならびに軌道変換用メインエンジン、制御用スラスター(噴射装置)や燃料/酸化剤タンクなどからなる「推進モジュール」の3部分で構成されているが、全系の頭脳部分は誘導計算機を含めた航法誘導制御系、電力供給系や通信・データ処理系などを収納している「電気モジュール」である。
1995年度末(’96年3月)に、《MHIがHTV全系の主契約者と「補給キャリア」及び「推進モジュール」/三菱電機が副契約者として「電気モジュール」/IHIが「推進モジュール」の一部分担》と担当企業が内定し、NASDA(のちJAXA)から開発受託した。以来14年目の初飛翔であった。

A 『無人ランデブ・ドッキング技術』の研究履歴   
1969年7月21日早朝(UTC:7月20日)、宮城県にある航技研(NAL)角田支所の食堂で、《アポロ11号の人類初めての月面着陸》の宇宙中継実況を仲間たちと興奮しながら見ていた時のことである。ロケット燃焼実験のため、東京地区からも3週間程の宿泊出張でNALのほか推本(同年10月からNASDA)の若手職員やロケットメーカの技術者など30名ほどが集まっていた中で、実験団のボスで私の直属の上司でもあった山中龍夫室長(工博)が、「日本では大きな射場が造れないので『サターンX(ファイブ)』【注23】は無理だが、小さいロケットで小型の宇宙機をいくつも打ち上げて軌道上で無人ランデブ・ドッキングすれば大型宇宙船をつくることができる。日本はロボット技術などではヒケをとらないので、これからは、アメリカとは力勝負に囚(とら)われずに知恵で勝負しようじゃないか!」と檄(げき)を飛ばした。時代は日本最初の衛星「おおすみ」(重量24s:’70年2月11日打上げ)が上がる半年余り前であり、当時の日米格差は圧倒的だっただけに突拍子もない話に一同アッケにとられたが、考え方は至極真っ当であった。

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             図16 『ランデブ・ドッキング技術』研究開発の履歴と宇宙プロジェクトへの適用《HTVまでの道程》

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【注23】 『サターンX(ファイブ)』は、NASAがアポロ計画遂行のため開発した史上最大のロケット(全長110m、直径10m、重量3,038ton)。開発の指揮を執ったのは、第2次大戦でロンドンを空爆した独V2ロケットの設計者W.V.ブラウン博士(米国帰化)。本計画遂行のためにアラバマ州ハンツビルにNASA・マーシャル宇宙飛行センター(MSFC)が設立されてブラウン博士を所長に据えた。広大なフロリダ半島のケネディ宇宙センターで最終組立の後、打ち上げられた。
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帰京すると早速、山中室長指示でRVD(ランデブ・ドッキング)研究チームを結成、先ずランデブ・レーダを試作して、年末には周辺に電波障害物の無い多摩湖畔の丘陵(埼玉県)を選んで風船気球に試作品を搭載して通信実験をした。「机上論より先ず実行!」の室長だった。目先のテーマが山積していたため、「無人ランデブ・ドッキング技術の研究」はその後しばらく小休止することになったが、私が三菱に転籍した後NALで組織横断的なチームによる研究報告書が出され、それに基づいて、’78(昭53)年度からNALとNASDAの公式共同研究が開始された。
この研究を支援するための委託業務【注24】が発注されることになり、MHI、三菱電機、富士通の3社が指名を受けた。ところがMHIが2年目に、富士通が4年目に相次いで脱落して三菱電機だけが残り、以後’90年度まで13年間受託研究を続けることになる。初年度契約額は390万円、13年間の年平均契約額は2,500万円強であったが、最初の4、5年間は「RVD技術の研究成果を一体何に応用するのか?」が全く見えず、毎年のように社内の方針会議で「問題契約(?)」として吊し上げにあいその説明に四苦八苦したものである。

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【注24】 「RVD技術研究支援」委託業務を起案・着手したNASDA開発官が、のちNASDAの有人プログラム部門の総括部長や担当理事を歴任して、実験棟「きぼう」や補給機「こうのとり」等のプロジェクト遂行責任者となる。
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ようやく’82(昭57)年初頭に、NASAの次期計画として、のちの国際宇宙ステーション(ISS)の原型案が発表されたのにカコツケて一計を案じた。すなわち国際協力計画として日本参画プランを推進して、そのプランの一環として、ステーションから自由に離発着できるプラットフォームあるいはフリーフライヤ-(Free Flying Platform、Free Flyer)を組み込んで実現するという案である。
同年3月、まず三菱電機の片山社長が中川一郎科技庁長官に面談したが、その後はオールジャパンで政府を動かして米国に提案するプログラムとして三菱3社(重工、電機、商事)の協同作業に戦術転換して、経団連を通じた対業界ならびに政・官・学への働きかけを行った。
結論的には2年後(’84年度)に、ISSに連接する実験棟(JEM:Japanese Experimental Module:「きぼう」)で宇宙ステーション計画への参加を果たすことは出来たが、三菱電機の期待したプラットフォームは予算上の都合で見送られた。しかし、科技庁・NASDAが主導する有人JEMプロジェクトに対抗する形で、’86(昭61)年度に通産省【注25】と宇宙研の協同計画として無人「宇宙実験・観測フリ-フライヤ-」『SFU』【注26】がまるで代替案のように浮上して実現することになる。長い苦労の末やっと念願のRVD技術を適用できるプロジェクトを手に入れることが出来た。

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【注25】 ’86(昭61)年5月16日付で通産省所管の財団法人「無人宇宙実験システム研究開発機構」(USEF)が設立され、通産省サイドのSFUプロジェクトの開発ならびに運用機関の役割を果たす。
(詳細経緯は、別冊子〖USEF設立とSFUプロジェクト発進までの歩み〗に記載)
SFU以後も、通産省(のち経産省)の宇宙システム開発機関として、USERS(次世代無人宇宙実験システム)、SERVIS(宇宙環境信頼性実証システム)ほかの斬新な宇宙開発プロジェクトを遂行してきた。
2012(平24)年3月30日に、経産省所管のERSDAC(資源・環境観測解析センター)、JAROS(資源探査用観測システム研究開発機構)とUSEFの3組織が統合されて、USEFを存続母体とする財団法人「宇宙システム開発利用推進機構」(略称J-spacesystems:Japan Space Systems)が、経産省所管の宇宙機関として一本化して再発足した。
【注26】 〔重量〕3.8ton 〔本体寸法〕4.5m(径)X3.1m(高さ) 〔電力〕3kw 〔自律航法誘導制御システム〕
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B 「こうのとり」実現までのホップ・ステップ・ジャンプ
SFU(Space Flyer Unit)は、ロケットで打ち上げられ、軌道上(300km〜500km)で数ヶ月実験を行なったのちNASAのスペースシャトルに回収されて地上に戻り、ミッションを変えて再飛行する再利用型宇宙機である。
無人宇宙機であるが、有人のシャトルに接近するため厳しい有人信頼性設計規準が要求され、のち同じく有人対応の信頼性要求が課されるHTVにこの経験が活かされることになる。

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                  図17 「SFU」 (宇宙実験・観測フリーフライヤー)

’95年3月18日にH-Uロケットで高度330km軌道に打ち上げられたのちは、自律航法でシャトル軌道面(傾斜角28.5度)に軌道変更した上で、高度486kmの実験軌道まで上昇、そこで約9ヶ月間各種実験や帰還準備のための機能チェックなどを行った。回収は’96年1月13日、スペースシャトル「エンデバー号」(STS-72)に初搭乗の宇宙飛行士、若田光一氏の操るマニピュレータで掴まれてカーゴ・ベイに収納された上で、1月20日ケネディ宇宙センターに帰還した。

さて本題からちょっと離れるが、通産省(のち経産省)の宇宙システム開発機関であるUSEF(【注25】参照)のSFUプロジェクト以外の貴重な開発成果の一例に触れておきたい。
USEFではSFUの次のプロジェクトとして、USERS(Unmanned Space Experiment Recovery Systems)を実行した。長期間の微小重力環境利用実験を実施した後、回収カプセルを収納した帰還船(Reentry Module)を所定の宇宙空間内の空域を通る位相軌道に移行して軌道離脱させ、最後にカプセル部分を分離して自律的に地球に帰還させるシステムである。

2002(平14)年9月にHU-Aロケットで打ち上げ、軌道上で超電導材料の製造実験をした成果物の入ったカプセルを翌’03年5月に小笠原東方の所定の海域に着水させて船上回収した。宇宙軌道上から、地球上の所定のエリアに自律的に帰還させる回収プロセス″をわが国で初めて完遂、成功させた。「はやぶさ」の地球帰還(’10年)の7年前のことである。

−−閑話休題−−
NASDAで長い間RVD技術の研究を続けてきた筑波宇宙センターの研究職員が、ライバルとも云える宇宙研/通産省コンビに先を越された形になって切歯扼腕したのは云うまでもなく、SFUプロジェクトが動き出した翌’87年から目の色が変わり、RVD応用構想を次々に提案することになる。故障した衛星の救助に行きロボット技術を用いて修理する、謂わば《JAF宇宙版》の応用技術プラットフォーム「ATP」も有望案の一つだったが、開発費が高過ぎてお蔵入りになる。

「筑波の研究費に見合う半額プラン」を要望されて実現したのが《RVD技術実証試験機》愛称『おりひめ・ひこぼし』(ETS-Z)(公式名:技術試験衛星Z型「きく7号」)である。
この衛星は、チェイサ衛星(ひこぼし)とターゲット衛星(おりひめ)の2機の衛星から構成されており、この2機を用いて、遠隔操縦あるいは自動操縦により分離や接近・ドッキングをくり返しながら、ランデブ・ドッキング(RVD)実験を実施した。また他に、国内研究機関からの応募も併せて5種の宇宙用ロボット実験機器を搭載して、地上からの遠隔操作により軌道上作業を行うための宇宙用ロボット技術実験を行った。なおこれらの遠隔操縦、遠隔操作は、NASDAの追跡管制局からNASAのデータ中継衛星「TDRS」を経由して行い、日本から直接見えない不可視域における軌道上作業など将来を見据えた運用技術の修得にも役立てることができた。
 
ETS-Zは’97(平成9)年11月28日にH-Uロケットで打ち上げた後、先ずロボット実験を先行して行い、本番の第1次RVD実験は翌’98年3月から8月まで半年間実施して基本機能を検証した。その後、最終の第3次実験となる’99年10月までに、折から開発進行中のHTVの実運用を想定した様々な課題に対応した実証試験を行って、HTVの宇宙ステーションへの接近のための航法アルゴリズムの確認など航法誘導制御技術の基本形【注27】を確立した。

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図18 《RVD技術実証試験機》「おりひめ・ひこぼし」

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【注27】 3種のランデブセンサ(GPS受信機、ランデブ・レーザ・レーダ、近傍センサ)を距離により使い分けてターゲットとの相対位置・速度を求め、搭載された誘導制御計算機によりターゲットに接近するための飛行経路を自動的に求める自律航法誘導。
安全な下方(地球方向)からのRバー接近飛行や衝突回避自動操縦や遠隔操縦など。
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上述したSFUやETS-Zは実験や技術実証プロジェクトとしては極めて有意義であったが、その成果を活用出来る本命プログラムが当初は見えず、予算獲得のシナリオが描けなくて苦しんできた。しかるに、’93(平5)年ごろから、国際宇宙ステーション(ISS)の運用費の一部を活用してISSに食糧、水等の必要物資を運ぶ案が浮上してきて一気に実現性が出てきた。

日本が有人実験棟(JEM)によって参加を内定した’84年頃のISSは、日・米・加ならびに欧州(ESA加盟11ヶ国)の自由主義圏14ヶ国の国際プログラムだったが、’94年に、冷戦後の政治的配慮から、ロシアを加えた15ヶ国による〔新〕国際宇宙ステーション計画として全体計画が見直されることになった。

NASDAはこの機会を捉えて、NASAとの交渉で日本が拠出する運用分担金の見直し及び補給機「HTV」の開発
案を提案【注28】して承諾させた。ここに初めて日本版の補給機が国際的に日の目を見ることになるが、当時、先(せん)達(だち)(Forerunner)としてSFUやETS-Zの開発が進捗していたことや、NASAの有人プログラムの中核であるテキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センター(JSC)とは、SFUでの7、8年に及ぶ長いお付き合いで信頼関係が構築されていたことなども援(たす)けになったものと思われる。

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                   図19 (中央正面)『こうのとり』 〔宇宙ステーションに係留中〕
                 (手前〔ロシアポート〕 乗員輸送用ソユーズ宇宙船と補給機プログレス)

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【注28】 ISS本体の大家(おおや)は米国NASAであり、日本や欧州が増築した実験棟は電力、通信、居住環境
及びISS自体の運航・管制などの共通インフラを大家に頼っており、それらの分担費用を運用費としてNASAに支払う取り決めになっている。貨物の運搬を請け負うことで運用費の一部を割引させ、(国内向けには)その節約分で運搬用補給機の開発費を補うことで、プロジェクト・ニーズと予算措置を併せて解決する案である。
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翻(ひるがえ)ると「SFU」から「ETS-Z」へ、そして「HTV」の実現までは、ホップ・ステップ・ジャンプの三段跳(さんだんとび)だったナと思う。回り道のように見えても、どれもが大事で、必要な足跡(そくせき)だった。

〔NASDAでRVDの研究を起案した開発官が、のち有人プログラム部門の総指揮官としてHTV発進の役割を果したことも巡りあわせであった。〕

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                  図20 『こうのとり』〔宇宙ステーションに係留直前・相対停止状態〕

1996(平8)年に産声(うぶごえ)をあげた「宇宙ステーション補給機(HTV)」の雛(ひな)が、のち2009(平21)年には見事に羽ばたいて、以後毎年のように『こうのとり』として宇宙(おおぞら)に舞うことになった。
(完)

【追記】 航技研時代の恩師 山中博士から、平成22年元旦に 嬉しい年賀状が届いた。
「HTVの打上げを老夫婦で種子島まで見に行きました。
四半世紀の夢が実現しました。 これも大石さんのお蔭です。」 
(《アポロ11号月面着陸のライブ》からは、四半世紀どころか、丁度40年が経(た)っていた。)

リンク:
 (1/3)へ http://hamato.at.webry.info/201411/article_2.html
 名工大計測工学科一期生の軌跡HP http://hamato.at.webry.info/201411/article_1.html
 




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